国際法からJ-popを見る

グローバル化とは何なのか?

こんにちは、akiです。2020年もよろしくお願いします。

新年早々ですが、だいぶ重たい話題を扱います。

1月3日に私のTwitterのフォロワーである「遊道よーよー」さん(以後よーよーさんと呼びます)がこのようなツイートをされました。

それに対して私はこのように返答しました。

そして、この私のツイートに対するよーよーさんの質問がこちらの2つです。

答えるべき問いは2つあると考えます。

1.「なぜグローバル化した社会で国(国家)を比較することにあまり意味がないのか」

2.「なぜグローバル化した国際社会で日本の音楽は存在感を発揮できないのか」

テーマは、私が長らくブログに書いて見たかったことなので今回 記事にしました。また、おそらくよーよーさんと私との間で最も食い違いが大きいのは1つめの「国とグローバル化」との関係だと思ったので、そちらを重点的に説明しました。それでは説明を始めたいと思います。

※注意 この記事は9000字近くあります。

なぜグローバル化した社会で国(国家)を比較することにあまり意味がないのか

グローバリズムについては、よーよーさんのおっしゃる通りです。国家間にあるヒト・モノ・カネの流れを妨げる障壁をなくし、より自由な流れを世界中で目指すことがグローバル化です。このことがお金持ちとどう絡むのかということについて国単位での比較の話も含めて私の考えを説明したいと思います。

まず、グローバル化は自然現象ではありません。目的をもって国家が行った行為の結果です。

先程述べたとおり、グローバル化とはヒト・モノ・カネのながれを国境に関係なく自由化することです。別の言葉で言うと、以前はヒト・モノ・カネのながれを阻む壁があったわけですが、それを作っていたのは国家です。関税など、貿易に関わるルールや移民のルールも各国が独自の基準で決めていました。

それによって、経済活動は基本的に国内にとどまっていましたし、外国との取引も極めて制限されていました。日本が資本主義体制に移行した明治維新以前には、江戸幕府の下で鎖国政策が行われていたことを想起していただければよくわかると思います。

移民のルールはいまだに各国の独自裁量が強く残っています(ただし優秀で国内の経済に貢献しそうな人に対してはどこの国も緩いです)が、モノについては国ごとの壁を極力取り払おうという努力―つまり港の数を増やしたりTPPのような自由貿易圏の構築です―が増えます。特に二次大戦以降にこの流れが強まり、これを私たちはグローバル化と呼んでいます。

そうなると、進出してくるのがグローバル企業です。以前から国内では企業同士の競争があり、生き残れない会社は廃業してしまう訳ですが、今度はこれが世界規模で起きます。例えば、日本でトップの企業でもグローバルな戦いで負け、国内市場まで相手企業に奪われ、結局買収されるという例を私たちはたくさん見てきました(特に高度成長期に発展してそのあと斜陽産業になってしまった会社です)。

グローバルな戦いでは負けるときは完敗、勝つときは完勝というのが特徴です。自由競争ですから、負けても責任はだれも取りません。もちろん、独自に「負け組」の人たちを救済するような制度(日本では生活保護などの福祉制度がそれにあたるのかと思いますが)がある国も存在しますが、それは十全に担保されているとは全く言えませんし、そういった仕組みがほとんどない国もあります。そうやって、負けて散っていく人たちを背に世界中で利益を上げる企業が出始めます。アメリカのGAFAなどがこれにあたります。

いつのまにか、私たちはプラットフォーマーなしでは生活できなくなりました

勝ち組が世界のルールを変えていく

この後何が起こったのかが一番重要なのですが、グローバル企業たちは貿易のルールを企業に有利になるように変えることに成功しました。そのからくりはこうです。GAFAと米国政府を例に話します。

アメリカ政府(国ですね)としては、冷戦以降に確立した世界唯一の超大国としての地位を持続させたいという思惑があります。そのためには、現代では武力侵略は非合法(ということになっているので)、アメリカマネーを世界中にばら撒く、つまりソフトパワーで経済的に支配するということが重要な戦略になります。ですから、自国に本部があるGAFAが利益を上げ、世界中がGAFAのサービスの上に成り立つという状況は大変に望ましいことです。

他方、GAFAは私企業ですから、もっと世界中で利益を上げたいというのが彼らの本質です。この両者の思惑ががっちり合ったため、政治の側がいわゆる「規制緩和」を打ち出し、グローバル企業が利益を上げやすい構造に社会を変えたのです。

どこかの国が多国籍企業の働きやすい法制度を備えれば、それに合わせて他国も法制度を変えなければいけません。そうでなければ経済で後れを取ることになり、国家の存亡にかかわるからです。しかし、これによって国家は自らが持つ「主権=自分の国のことを他の誰にも干渉されずに決める権利」を自分で制限してしまいました。グローバル化が国境をなくす=国家の否定という性格を帯びていることからすれば当然の帰結とも言えます。

しかし、最初は各国が自分で自分に足かせをはめていただけだったのですが、国際貿易機関(WTO)が発足する際に、各国は国内法をWTOの規定に合わせる義務を負ってしまったので、「私の国は自由貿易の流れには乗らない」という選択肢は、WTOに加盟しないとかWTOを脱退するといった方法以外にはなくなってしまいました。ただ、WTOのような世界的な貿易枠組みに乗る方が自国の経済に利益が出ると(日本を含めた)多くの国家は判断しているため、この基準に従って国内法を整備しなおす必要がありました。

そして、こうした政治側からのアプローチによって利益を出した企業は「政治献金」という形で政治家の懐に飛び込むようになります。そして、政治家はいまやグローバル企業の僕となってしまっています。ということで、グローバル化が起きたことで国際関係のルールをすべて決めていた国家はグローバル企業という私的な企業体にある意味乗っ取られてしまいました。

人の支配から法の支配の時代を経て、いまは「金の支配」の時代なのかもしれません

国は誰を代表しているのだろう?

いまや、国家は自国内のグローバル企業の利益を代表して争うことを隠しません。その一つが国際通貨基金(IMF)です。IMFは国際連合に属する専門機関のひとつですが、国連の理念とは異なる重要なポイントがあります。それは「一国一票ではない」ということです。票の重さは、GDPなどを基に計算されたクオータに基づいて決まります。当然、一番強いのはアメリカで全議決の16.25%の力を持っています。日本は6.15%で、中国は6.09%です。また、189の加盟国のほとんどは議決権の1%以下の力しか持っていません。議決力の85%以上の賛成があれば、このクオータを変更することができますが、そもそもG7諸国だけで半分の4割近くのクオータを持っているので、他の国家の意見が通ることはまずないだろうと思われます。

もちろん、IMFを牛耳る国家というのは(日本も含めて)真に国家の代表というよりも「一部資本家の代表」という性格を強く持ちます。

IMFのクオータの詳しい割合はこちら(※英語)からご覧いただけます。

もちろん、これらの企業がいくら強いと言ってもこれまで決められた国家間の条約は無視できません。また、政治家がもはや国家でなく資本家の代表でしかないとしても、手続きの上では国どうしがやり取りをしてルールを決め、国際犯罪組織の暗躍やパリ協定などの環境問題など私企業の目的の範囲外のことがらには国家が主導的役割を果たすこともあります。さらに、例えばTPPやEUの中では自由化を進めるけれど、その外側とのやり取りには厳しい規制を敷くというやり方も現代では一般的です。これは一つの国の国境とは違い多数の国が合わさって新たな「境界」を作っていると解釈できます。そのため、 国家の存在意義が全くなくなってしまったわけではありません。学術的には絶対的権威の国家が「相対化した」とも言われます。

間違いなく言えることは、国際社会で国家が発揮できる能力はどんどん衰退しています。特に経済面においてはその傾向が顕著にあり、主導権は国家から私企業(グローバル企業)に奪われつつあります。

さらに、国家に全く頼らずに物事を進めていこうという動きもあります。グローバル企業が、本部のある国とは別の国との間で問題を起こした場合には、その国の国内裁判所で通常通り裁判されたり、あるいは国家どうしが企業に成り代わって国連の機関であるWTOや国際司法裁判所(ICJ)に提訴したりと、各国政府が何らかの形でかかわるような解決手段が獲られていました。

しかし、いまではヨーロッパの産業人が立ち上げた会議が由来である「国際商工会議所(ICC)※公式サイトはこちら」がどの国の政府の仲介も経ずに仲裁をすることが年に1,000件以上あります。また、世界銀行が制定し日本も批准している「投資紛争解決条約」では、政府と外国投資家との紛争は世界銀行内にある「投資紛争解決国際センター」で処理することを定めています。そこでは、各国が事前に推薦している調停人が仲裁を行いますが、調停人はもちろん政府の役人ではありませんし、外国人を推薦しても良いことになっています。

また、世界的に生活水準が向上したことで、いわゆる「新興国」の存在がグローバルな戦いで重要になってきます(そもそも、私は「先進国」や「発展途上国」といった概念に反対しているので、こういう言葉は使いたくないのですが)。文化で言えば、アメリカ映画やスポーツ業界において中国から出るお金は無視できませんし、インドのボリウッドも本家ハリウッドと強いかかわりがあります。国家どうしの相互的な依存が高まっているため、たとえアメリカや中国のような超大国であったとしても、いまからいきなり孤立無援で国の存在を保つことは難しくなっているように思います。

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文化はお互いに交流して学び合うことによって洗練されていくのかもしれません

この流れは、当然いまの音楽にも影響します。現代音楽は芸術である一方で音楽「産業」だからです。

いま、世界でメジャーレーベルはたった3つです。3つのレーベルとは、ユニバーサル・ソニー・ワーナーです(日本には「メジャー」と呼ばれるのが15社くらいあります)。この三社だけで世界の7割のシェアを持っていて、他はすべて「インディーズ」と呼ばれています。レコード会社同士の買収が進んだ結果、最終的に3社の寡占になりました。

これもGAFAとよく似ている、グローバル化の一つの形態です。つまり、世界の音楽業界で重要なことは、どこの国かではなく「どこのレーベルから曲を出すか」なのではないかと私は考えます。ちょうど、ITベンチャーがどうやって自社の技術をGoogleとAppleに使ってもらうかを考えているのと同じように。これらのメジャーレコード3社と契約し、自分の作る音楽がレコード会社の世界へのマーケティング戦略と合致したときに、世界的なヒットが生まれるのではないかと私は考えています。

これらのレコード会社は現代文化の中心であるアメリカでもっとも精力的に活動していますが、これらのレーベルの有名アーティストには移民の子孫やアメリカでは生まれておらず米国籍を持たないない人たちが多くいます。これはグローバル化社会の相互依存性に結びつきます。ぶっきらぼうに言うと、アメリカという国がもとからすごいのではなく、アメリカのメジャーレーベルと契約している優秀なアーティストたちがすごいのです。

※加筆
「あの国はすごい」というとき、その「国」が何を指しているのかは非常にあいまいです。私のように法律を学んでいる人間は「国民国家」とか「政府」といった存在を指すものと思いがちですが、日常会話では「国」と言っているときに「経済」や「国民」を指している場合もあります。もしかしたら、ここまでで私が言及している「国」や「国家」の正体をイマイチつかめていない方もいるかもしれません。もしいままで読んできたけれど腑に落ちないという場合は、あなたのイメージの中にある「国」と私がこの記事で書いている「国」に差があるかどうか考えてみてください。

「外に出ていく」ことだけがグローバル化ではない

日本の音楽業界のことに話を移します。多くの日本人アーティストが世界の3大レーベルの日本法人に入っており、この点では日本の音楽業界は十分グローバル化の波に乗っているとも言えます。

では、なぜ海外のチャートに日本のアーティストが入ることがないのかを考えました。その理由は、グローバル化には2つの側面があるからではないでしょうか。グローバル化というと積極的に外に出ていくことを想像しがちですが、それはそういうことができる巨大資本を持っている場合にのみ当てはまることです。多くの場合は、受動的にグローバル化「させられる」ことになります。IMFでクオータを1%未満しか持たないような多くの国々は、選択の余地もなくグローバル化した社会の枠組みに捉えられていて、世界中の国の中ではそういった状況にならざるを得ない国の方が多いのが実情です。

グローバル化は夢のような話、、なのかどうか。

高度経済成長期には、日本は車で世界をグローバル化「する」側に立ったと言えます。リーズナブルな価格で機能も日常使いに不便がない。こうして米国のフォード社など名だたる自動車メーカーをなぎ倒し世界のスタンダートカーを作り上げました。また、経済が発展していなかった国々に対してはもっとベーシックな自動車を開発したり、あるいは他の日本企業がバイクを売って大成功するなど、この時代に日本のグローバル企業は明らかに世界のルールを規定する側にいたと思います。

しかし、度重なる不況によりこの地位は瞬く間に崩れます。いま、一気に日本はグローバル化「される」側に回っていると言えます。例えば、日本で売られる家電機器は日本企業のものから米アップルや韓国のLG・サムスンという二大財閥、そして中国企業のものへと急速に変化しました。音楽レーベルも、東芝が持っていたEMIがユニバーサルに買収されました。EMIは世界の中で「メジャーレーベル」と呼ばれていたレーベルの一つです。

グローバルに事業を展開する障壁として、英語を挙げる人もいます。しかし、英語が問題なら、英語教育がいまより疎かで英語を話す人材も今よりずっと貴重だった高度成長期になぜ日本企業があれだけ世界中で存在感を示したのかという説明はできません。人口が1億人もいる日本では国内市場の規模がある程度大きいので外に出ていく機運が高まらないという人もいますが、高度成長期の真っ只中である1967年の時点で日本の人口は1億人を超えています。そして、どんどん豊かで賃金も上がっていくこの時代では、日本人の消費意欲は今よりも旺盛で日本経済も活発だったはずです。

私たちはいままで、意識せずとも「外に出ていく」ことがグローバル化だと思っていました。それは高度成長期(+バブル)の活況があったからできたことで、この発想自体が「強国」、もっと強い言い方をすれば「帝国」的な考え方なのだということを、経済発展で世界に後れを取っている私たちは現在進行形で見ているような気がします。これはのちの説明でよりよくわかっていただけると思います。

グローバル化社会を作った「国際法」とは?

もう一つ、説明すべきことがあります。日本がグローバル化「される」側に回っているのと同じように、ヨーロッパ諸国に住む人々もアメリカを中心とするグローバル化を「された」側だけれど、彼らはアメリカのレーベルに入り活躍しているじゃないか、ということです。確かにそうです。

納得いく説明かどうかはわかりませんが、それはいまのグローバル化につながる国際法制度を作ったのが彼らだからだと私は考えています。これは、日本の重工業が世界の中で未だにある程度の存在感を持ち続けていることに関わると思います。

天然の要害である海を隔てた国とわざわざつながるのは本当に大変です

「国際法」とは読んで字のごとく「国と国との間の法」のことです。「条約」などが良い例です。「日本国憲法」のような日本という一つの国内でしか通用しない法である「国内法」と区別されています。同じ「法」ですが「国内法」と「国際法」のシステムは一つとして同じところがありません。その違いを説明するとあと5000字以上は必要なので省きます。いまの「国際法」という概念を作ったのは植民地支配を始めたころの西洋列強(英・仏・西・葡・蘭といった国々)の各国で、グローバル化した社会で国家間のやり取りを円滑に進めるためには必要不可欠な法システムです。ということで、最後に国際法そのものの成り立ちについて書きます。

いまの国際社会で適用される国際法は、国家間で自由にヒト・モノ・カネの移動を自由に行うという基本理念があり、西洋列強がこの制度を作り始めた当初から変わりがありません。しかし、第二次世界大戦後の「現代国際法」とそれ以前の「近代国際法」の間で大きく異なる部分があります。

日本は「野蛮国」?

「近代国際法」は世界中の国家を3つに分類していました。近代的な法制度と行政組織を持つ「文明国」、法制度も行政組織も存在しているが完全な形ではない「野蛮国」、そして王政などが残り近代的な法制度も行政組織も持たない「無主の地」です。想像していただければわかる通り、「文明国」には西洋列強が入ります。江戸時代まで封建制度が残り、明治維新で付け焼刃の改革をした日本は「野蛮国」に入りました。「無主の地」にはアフリカ、東南アジアなどが含まれます。

そして、近代国際法では「文明国」は「野蛮国」と一方的に不平等条約を結ぶことができ、「文明国」は「無主の地」を自由に占領し開発できるということが合法的に決められていました。もちろん、これには「野蛮国」「無主の地」とされた国々の同意はありませんが、法制度を備えない国など交渉相手ではないとみなしていた「文明国」はこれを勝手に決めました。

「無主の地」に対して最初に主権を宣言できるのは、そこを最初に占領した「文明国」ということになっていました(先占権と呼ばれます)。また、この占領の過程で生じる武力を伴う戦争も合法で「文明国」は植民地となった地域で搾取の限りを尽くしました。しかし、第一次・二次世界大戦でヨーロッパ大陸自体が戦場となりヨーロッパが荒廃したことや、それ以降にアフリカや東南アジア諸国が「自決権」を掲げ独自の国家を作る正当性を訴えたため、「現代国際法」では武力行使禁止原則が成立し、先占権も当然否定されています。

(※武力行使禁止原則があるのに、なぜアメリカが先日イランの軍人を殺害したような武力行使が正当化されるのかについては、説明しようとするとあと3000字以上必要なので割愛します)

さて、日本は明治維新直後にイギリスなどの強国から不平等条約を突き付けられますが、これは日本国が「野蛮国」であり、相手が「文明国」だったからです。また、不平等条約を明治政府が改定していくのは、日本を「野蛮国」から「文明国」へと押し上げるために他なりません。日本は「文明国」の仲間入りを最終的に果たし、他国と同じように「無主の地」を支配していくことになります。

グローバル化が「新植民地化」だと言われることもありますね

「元文明国」としての欧米諸国

グローバル化との関係についてに話を戻しますが、二次大戦以降、国家間の平等に重きを置いて法制度が組み立てられてきた国際社会ですが、しばしば欧米諸国は「元文明国」として振舞うことが現在でもあります。これは多くの国際法学者が指摘しています。ただし、そのような振る舞いは不平等条約のような明らかな形ではなく、IMFのクオータのようにもっと複雑な形で行われています。そして、先述の通り日本も「元文明国」ですからそのように振舞うことも多くなります。

しかし、日本は「野蛮国からの成り上がり」(かつ二次大戦の敗戦国)ですから、ときによっては他の欧米諸国のようにふるまえない場合があります。私は、高度成長期には日本の国際社会における存在感が大きかったために「元文明国」のようにふるまえる機会が多く、グローバル化の「主体」になることができたけれども、存在感を落としてきたことによってそのように振舞える機会は減り、グローバル化の「客体」になりつつあるということが根本にあるのではないかと考えています(もちろん、欧米諸国は法を作った張本人なのですからいつでも「主体」として振舞えます)。

日本の音楽業界の栄枯盛衰も、特にグローバルな事業に関しては業界内の問題だけでなくこうした国際社会の構造の問題も大きくかかわっているのではないかと思っています。

まとめ

結局、国ごとの比較をするのは意味がないと言っているのに国家ごとのパワーバランスの違いについて述べていますが、繰り返している通りこの「国」というのがしっかりと全国民を代表しているのかどうかということには注意が必要です。そして、自分たちが作って来た法の上で生きている欧米諸国はそれだけこの世界で通用する「文化資本」を持っているのです。もちろん、私たちは私たちなりの、アフリカや他のアジアの国にはそこに暮らす人たちなりの文化資本があります。しかし、それは欧米式の法制度の上では必ずしも役に立ちません。

最後はかなりきな臭い、あまり希望の持てない、少々範囲の広すぎる話になってしまいましたが、これが私の「なぜグローバル化した社会で国だけを比較することにあまり意味がないのか」、そして「なぜグローバル化した国際社会で日本の音楽は存在感を発揮できないのか」ということに対する答えです。

少々落ち目になっている日本がもう一度国力(=経済力)を取り戻すことができれば、もしかすると日本の音楽が世界中でもっとなる日が来るのかもしれません。その日には、日本だけでなく他のアジア地域やアフリカの音楽も世界中であまねく鳴るようになって欲しいと思います。

※本当にこれが最後です
よーよーさんのツイートのうち、最初のツイートの「日本では洋楽が流行らない」という部分はこの記事では全く説明できていません。これは、英語が原因なのでしょうか。以前書いたように、映画については興行収入の面で洋画は邦画以上の存在感を放っています。ただ、これらの洋画は多くの場合吹き替えられて別物になってしまっていますが。Spotifyの日本チャートではビリー・アイリッシュやエド・シーラン、ジャスティン・ビーバーといったアーティストは入っていることも多いですし、BGMとしてテレビ番組で流れていることも多いように思います。ですから「実は巷で言われているよりも洋楽は流行っている」のかもしれないという仮説も立てられそうです。しかし、それを論理だてて説明することは現時点で不可能です。申し訳ありません。

長い文章をお読みいただきありがとうございました。

コメントを開放しているので、そちらで感想・反論していただいても、Twitterやnoteでしていただいても構いません。差別的言動でなければ全否定していただいても結構です。ぜひ、お読みいただいて感じたことを共有していただければと思います。

参考文献(記事中にリンクを貼ったものは割愛)

松井芳郎、『国際法―第5版―』、(有斐閣、2007年)

松井芳郎、『国際法から世界を見る 市民のための国際法入門―第3版―』、(東信堂、2016年)

岩沢雄司編、『国際条約集 2018』、(有斐閣、2018年) 

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