ひとりごと

「戦わないでつつましく幸せに生きて欲しい」という親の願いを子として考える。

こんにちは、文化ブロガーのakiです。「ひとりごと」は政治から経済、文化まで、私が思ったことや考えたことを書いていくコンテンツです。ジャンルレスに広い範囲をカバーしていきます。

この記事では主に以下の2つのことについて話します。
 ・戦うことの意味とは何なのか。
 ・幸せを得るために戦うことは必要なのか。

「戦うこと」は「不幸」なのか

先日、私は僭越ながら石川優実氏のTwitterの投稿に引用リツイートをしました。僭越ながらというのも、石川氏はアメリカの女優アッリサ・ミラノ氏がTwitter上で始め、世界中で拡散した#MeToo の運動に日本の芸能界でいち早く賛同して声を上げた方です。石川氏のツイートと、私が引用したツイートはこちらです。

この後、石川氏ご本人から反応をいただきました。大変ありがたいです。ただ今回は男性社会の部分を少し離れて、「そういうものに抗うくらいだったら我慢して出世してくれ」という親の願いの方に焦点を当てたいと思っています。

・あの親の願いとは何なのだろうか

おそらく、こういうことを親から言われたことのある方は多いと思います。簡単に言えば、「戦わずひそやかでいいから幸せになってくれ」ということでしょう。

このツイート以後、私は「戦わず幸せになって欲しい」ということをどう捉えたら良いのかということを考えていました。というのも、(反抗していた時期はありましたが)私は親と敵対している訳ではないですし愛情を受けた記憶もあります。それに「幸せになってほしい」という言葉は端的に親の愛情を表している言葉のようにも思えます。

では、私たちはこの言葉をどう考えればよいのか?

「いや、戦わないやつはダメだ」という言葉だけで片付けてしまってよいのか?

このような思いが頭の中で浮かんできました。そしてこれは非常に難しい問題だということに気づきました。もっと深い考察をしなければならないように感じました。

・この問いを解くヒントを与えてくれたのは、、、

という訳で、何となくモヤモヤした思いを抱えていた私に光が差した瞬間が訪れます。それはある本を読んでいたときのことです。その本とは、フリー・ジャーナリストの伊藤詩織氏が2017年に発表した「Black Box(東京:文藝春秋)」です。

伊藤詩織氏と言えば、誰もがある事件を想起されることと思います。彼女は元TBSワシントン支局長の山口敬二氏より性的暴行を受けましたが(※注:裁判で認定されたわけではないので本来断定はできませんが、私は暴行を受けたのだろうと考えています)、山口氏は不起訴となり、また勇敢にも実名で被害を告白した伊藤氏は日本で生活することが不可能となり現在はロンドンで生活しています。


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この本の中はもちろんその被害を告発するということがを中心なのですが、私の印象に強く残ったのはこちらの記述です。

父は私に、

「社会と戦ったりするより、人間として幸せになってほしい。娘には一人の女性として、平穏に結婚して幸せな家庭を築いてほしいというのが親の願いなんだよ」

と言った。親として当然の願いだった。

伊藤詩織、『Black Box』(東京:文藝春秋、2017年) 221頁 3-6行目

勇敢に告発した女性であるというイメージがあった彼女の著書においてこのような記述があるということはとても新鮮なことに私には思えました。わざわざこのことを著書で述べていること、そして「親として当然」という伊藤氏の評価からも、やはりこういう言葉は無視できないものなのだという認識を私は強くしました。

引用した部分はは伊藤氏が彼女の家族に実名で記者会見を行って事件を告発するということを告げ、家族が反対するというシーンです。彼女はこのお父さまの言葉に共感しつつも、直後に力強くこう述べています。

確かに父の言うように、何もなかったかのように過ごす方が傷つかないのだろう。しかし、だからといって、沈黙は平穏をもたらすわけではない。少なくとも私は、沈黙して幸せになることはないのだ。

伊藤詩織、『Black Box』(東京:文藝春秋、2017年) 221頁 7-9行目

特に重要なのは「沈黙は平穏をもたらすわけではない」という部分だと思います。

・「沈黙=死」である

この記述を見て思い出したのが、2017年に公開され第70回カンヌ国際映画祭にて審査員特別賞を受賞したほか、世界各国の映画賞において数々の賞を獲得した「BPM (Beats Per Minute)、邦題:ビート・パー・ミニット」という映画です。

この物語は90年代においてフランスのパリでエイズの啓発運動に取り組んだ「Act Up」という実際の団体の活動をモデルとした映像作品です。

いまではアジアよりジェンダー問題についてとても進歩していると思える欧州でも、
20年前はまだ性に関する問題への偏見が大きかったことをうかがわせます。

この映画において、彼らがエイズ患者に対して有効な施策が打ち出されていない政府や、それを無視する社会に対して抗議するときに出てくる言葉が「沈黙は死」という言葉です。これはかなり強烈な言葉です。

そもそもなぜ「ひそやかに幸せに暮らす」ことができるのか

さて、ここからが本論です。この記事のお題は「世に抗わないでつつましく幸せに」暮らすことができるのかという話でした。

ここまで書いてきた流れの中でお分かりかもしれませんが、私は「できない」のではないかと思います。

そもそも、私たちが幸せに暮らすためには、目の前に立ちはだかる困難や苦労を乗り越えなければなりません。口をあんぐりとあけてその場にとどまる人に幸せが降ってくるわけではないように思います。

私たちの世の中にはたくさんの理不尽なことがあります。もちろんすべてに全力で向き合っていると私たちも自滅しまいますからそれはできません。しかし、さきほども書いた通りある程度大きな脅威とは戦わなければ、私たちはその先にある幸せには到達できないのではないかと思うのです。邪魔をしてくるものと戦った結果、私たちは幸せを手に入れることができるのではないかと私は考えています。

・何も権利の為に闘争することだけが戦いではない

ここまで引用してきた情報がジェンダーやセクシュアリティに関わるものであって、そしてまた「戦え」などどいうのは、「あぁ、また何か勘違いフェミニストが言ってるよ」という印象を読者の方に与えてしまうかもしれません。今からその認識を崩します。

別に戦いというのは、デモや署名活動、あるいは最初に言及した#MeTooのようなものにとどまらないと私は考えます。例えば、多くの日本人の大人は会社に勤めているわけですが、その背後には自分や他の家族の生活が関わっていて、会社を辞めてしまえばご飯が食べられないというまさに「死活的問題」とのとなりあわせです。

会社員だけではありません。例えば、働かないで育児をしている方も多くいます。そういう方々は自分の思い通りには全く動いてくれない子どもを相手にして出かけたり、ご飯を作ったり、さらには夜だったとしても子どもの具合が悪ければ起きて面倒を見てあげたりします。私も育ててもらった側として本当に頭が上がりません。

また私たち学生は、学習を通して社会のことを学びながら、複雑化する現代社会にこれから放り出される不安と文字通り「戦い」ます。

他方、既存の戦いを否定して、組織に属さずフリーランスで働いたり、複数の分野にわたって活動される方もいます。しかしそのような方々も私たちとは別の「戦い」をしているのであって、決してのらりくらりと生きているわけではないように私には思えます。

これはすべて「戦い」だと私は思っています。別にすべての人を一緒くたにしてこぎれいな感じでまとめようというつもりは全くありませんが「世の中に戦っていない人などいない」というのが今のところの私の考えです。

Martin-Luther-King
マーティン・ルーサー・キングの公民権運動の裏には、
権利闘争とは別にたくさんの人たちの「普通の」生活があります。

・実は「ひそやかな幸せ」のためにこそ私たちは戦っているのではないか。

私たちはそれぞれが与えられたさまざまなフィールドで戦っています。一方で、戦うフィールドはさまざまであっても、戦う「目的」は同じであるように私は思います。

そうです。それこそが「平穏な幸せ」です。

会社で必死になって働いて給料を稼ぐのも、一生懸命将来を描こうとするのも、またそういった形ではない戦いを選ぶのも、すべては大好きなパートナーや子どもとともにかけがえのない時間を過ごすためであったり、一人で好きなアーティストのライブに出かけたり、好きなものを食べたり好きな酒を飲んだりするためです。そうやって、自分が幸せを感じるためです。

だから、「戦わないでひそやかな幸せを」という人に声を大にして言いたい、

愛情は嬉しいけど、やっぱり戦わないと俺たちは幸せになれないんだ。

結局はそう思うようになりました。もちろん「戦わずして勝つ」ことができればそれは理想です。しかし、人生において自分が生きていくために大きな障壁、理不尽に陥ったときに、「戦う意思」を持つこと、場合によっては自ら声を上げることは必要なことなのではないかと思います。

人間社会は残酷なので、良かれと思って声を上げたら孤立無援となり破滅してしまうようなこともあります。そのリスクを考えたら自分は戦えないと思う方もいるでしょうし、それはそれとして尊重されるべきだと思います。

また、「声を上げられない」「何も戦う気持ちが湧かない」というのは決して個人の問題ではなく、社会的にさまざまな制約があることが要因の場合がありますから、その点には注意を払う必要があります。

そういった場合を除けば、幸せのために戦うということは様々な場面において必要だと思っています。それはむやみやたらにやるのではなく、自分の幸せを掴む、または防衛するために行うのだと思います。そして、おそらく現時点でたくさんの日本人が、また日本人以外のたくさんの世界中の人が幸せのために戦っているのだろうと思います。

お読みいただきありがとうございました。

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