大衆文化は大衆「の」文化なのか?-2

マスメディアの功罪

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貴族の文化に触れられるように

前回の記事では、大衆文化が成立しうる要因としてマスメディアの存在と土地に縛られず金銭的・時間的に余裕を持った「労働者」の存在を挙げました。では、ここからはこのようにして成立した大衆文化が、それ以前の文化とはどのような違いを持つのかを考えます。

まずは良い面から挙げましょう。これまで貴族階級しかできなかった文化を庶民(労働者)が楽しむことができるようになります。具体的には、ゴルフやテニスなどが挙げられます。スポーツの多くはここから大衆化し始めます。さらには、映画が始まり、初等教育が庶民に行き渡り始めたことにより識字率が徐々に向上し、小説なども広く読まれ始めます。

文化のほぼすべての面で、庶民と貴族層の間にあった壁がより低く(完全になくなったとは言い切れないような気がするのでこの表現にしました)なり、庶民の経済力であっても十分に楽しめるものになりました。

「みんな」の文化を作った

この壁を打ち破ろうとする動きで大きな役割を果たしたのが、マスメディアを通した広告宣伝です。グーテンベルクの印刷技術をもってしても、一度に情報が広けることができるのはせいぜい数百人、それも全員字が読めないといけないという条件付きです。しかし、テレビやラジオは字が読めるかどうかは関係なく一度に数万人以上の単位で情報を拡散することができます

これは新しいビジネスを生み出すには格好のツールです。こうして、いままで庶民が経験したことないような娯楽をどんどん売り込み、社会的に地位が上昇した労働者階級の人々が広告を見てその娯楽を楽しむという構造が出来上がりました。

一方で、この構造がもたらす弊害ともいえるのが「平準化(英:Standardization)」です。つまり、社会に「ふつう」を生み出します。さらには、広告宣伝によって大多数の「みんな」が同じような行動をとるようになります。行動が同質化します。これによって、それまでの庶民文化の中核だった地域「固有」の文化は大衆文化の範囲内で観光の対象として大幅に変わることを求められるか、廃れるかの道をたどることになります。ちなみに、これを国家レベルで行ったのが日本の「インバウンド」戦略だと私は考えています。

そして、この平準化や同質化をいいように利用して、庶民を洗脳する道具としてマスメディアが使われた例は枚挙に暇がありません。そして、これらの事例のうちでももっとも世界に衝撃を与え、最も悪質だと考えられているのがナチス・ドイツのやり方です。

しかし、ナチス・ドイツという極端な例を挙げるまでもなく、世の中に「みんな」が共有する「ふつう」が蔓延すると、そこにうまく乗れない人たちを強烈に排除しようとする動きが出てくることは想像に難くありません。このような例は日本にもその他の国にもいくらでも存在します。さらには、あからさまに政治的に洗脳することはナチスのようだからできないとしても、マスメディアを通じた広告宣伝はいまでも「マーケティング」の最も大きな要素の一つです。

たしかに、庶民はいままで体験したことのない貴族層の文化を楽しむことができるようになりました。その一方で、いまでも自ら主導権を握った状態で文化を享受できているかは非常に疑問です。結局は、情報を発信できる側がすべてのさじ加減を決めているとすれば、大衆文化以前とあまり何も変わっていないとも考えられます。

しかし、庶民であり労働者であり、メディアが喧伝する大衆文化の「受け取り手」である私たちは本当に全くの無力なのでしょうか。次の記事ではこの課題について検討したいと思います。

お読みいただきありがとうございました。

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