意識することはないけれど身近なパターナリズム
こんにちは、akiです。
この「令和は『パターナリズム復権の時代』である」という連載では、令和という新時代では「自由の拡大」ではなく「自由の制限」が広がっていくということを述べていきます。
この連載において何度も登場する重要な概念が「パターナリズム」という考え方です。この連載でこの言葉を使う際、意味が日常において使われるものとは若干異なりますので、この概念を説明した記事をまずはお読みいただければと思います。
<目次>
・「自動車を自由に運転する権利」は誰も持っていない。
・そのかわりに「免許制度」がある。
・免許制度から高齢者を一律に排除することの妥当性は?
私たちに「自動車を運転する自由」はない
パターナリズムについて説明した記事をお読みになった方は、「そんな時代遅れな概念、いまの世の中にそんなにないだろ」と思われたかもしれません。実は、パターナリズムは社会の様々な部分に隠れています。身近な例の一つが自動車運転です。
私たちに「自動車を自由に運転する権利」はありません。自動車を運転したければ、免許を得て国家から運転を許可されなければいけません。これは世界中どこの国でもそうです(私有地の中であれば免許なしでも乗ることができますが、そんな土地を持っている人はそんなに多くはいませんし、交通手段としての車の意味は全くありません)。
免許を得るためには、日本国内では年齢が18歳以上であること、視力が弱くないこと、運転に支障をきたす疾患がないことなど、実に多くの条件をクリアしたうえで、試験に合格しなければいけません。この条件をクリアできない(持病、視力が弱いなど)ために免許を持つことができない人もいます。
つまり、私たちの「運転の自由」は「免許制度」という形で国家により制限されています。まさにこれは国家による「介入」の好例で、「パターナリズム」そのものです。
この「パターナリズム」の合理的な理由
さて、「パターナリズム」について説明した記事で権利の制限には「合理的な理由が必要」だと強調しましたが、「運転の自由」を合理的に制限できる理由とは何なのでしょう。
これは言うまでもなく、「自動車が人を傷つけ、最悪の場合 命を奪うから」です。国民が自由に殺人兵器を乗り回して多くの人が死に至るということは国家としては避けなければいけません。これはかなり合理的理由があるといえます。
高齢者の免許を一律に剥奪するのは合理的か?
昨今、日本国内のメディアで大きく取り上げられることが多くなっているのが「高齢者の自動車事故」です。特に、高齢者が運転する車が暴走して他人を轢いてしまった事故は、「悲惨な事故」として大きく取り上げられています。
このように社会の注目を集めるにつれて「高齢者の免許は一律取り上げるべき」だと主張する人も増え、いまでは無視できない数いるように思います。今回はこの問題を考えています。
ます、この「一定年齢以上は自動車を運転できない」というのは現在の免許制度からかなり踏み込んだ規制になるということには注意すべきです。
自動車免許を取得した人から加齢によって問答無用で剥奪することは、憲法が定める「移動の自由」に抵触します。また、自動車を運転することを趣味としている方も多いでしょうから、趣味を奪うという意味では「幸福追求権」にも反する可能性があります。
このようなことを考慮しても、なお「一律に免許を剥奪する」ことのメリットが大きい場合にのみ、権利は制限できます。
※「剥奪」という言葉を使っているのは、言葉の選択として強すぎで誇張していると思われる読者の方もいるかもしれません。しかし、国家がそれまで自動車を運転できていた人を加齢によって運転できなくするということはかなり重大な介入で、むしろ「剥奪」という言葉を使わなければこのことを過小評価してしまうと考えます。そのため、この言葉を引き続き使用します。
メリットを検証―合理的な理由はあるか
「高齢者の事故を減らす(なくす)」ことが加齢による免許剥奪の最大のメリットです。この点を詳しく見ていきましょう。
1.75歳以上の死亡事故の割合は若者の死亡事故の割合とさほど変わらない
以下のグラフは、平成28年の年齢層別免許人口10万人当たりの死亡事故件数です。つまり、10万人のドライバーが平均して何件死亡事故を起こしたかを世代別に見たものです。内閣府「特集 『高齢者に係る交通事故防止』」より引用しました。
たしかに75歳以上の死亡事故はとても多いのですが、16~24歳の死亡事故件数もとても多く、実は74歳以下の中では若者の死亡事故が最も多いことがわかります。75歳以上と24歳以下の事故は10万人当たりたった1件しか違いません。
2.高齢者の死亡事故「件数」は増えていない
75歳以上に絞ってさらに見てみると、事故「件数」自体はさほど変わりがないと言えます。一方で、日本の人口全体が高齢化しているため「割合」にすると平成18年から同28年までのたった10年間で7.4%から13.5%へと急激に増加しています。この「割合」だけを指して「高齢者の事故が増えている」と主張するのは合理的でなく注意が必要だということがわかります。
「高齢者」にどの層を含めるかによって変わってきますが、75歳以上の死亡事故率は確かに高いものの、その他の年齢層については突出して高いということは1つ目のグラフからは言えないようです。
また、2つ目のグラフを見ても、高齢者の事故が「急激に増加している」とは言えません。「事故率」は人口構成の変化によって自然と上がってしまっていると考えるのが自然に思えます。
3.メディアが取り上げる「対人事故」はレアケース
そして、もう一つは「対人事故」がどれだけあるのかです。
このグラフが示す通り、高齢者は単独での事故が多く、横断中の歩行者を轢いてしまう事故の割合はむしろ75歳未満の方が多いことがわかります(もちろん、他人を轢かなければ事故を起こしてもいいわけではありませんが)。
テレビでは高齢者が人を轢いてしまった事件が報道されることが多く、それを根拠に「高齢ドライバー問題」が語られることが多いですが、実はそのような事故はメインではないということは、この問題を考えるにあたって重要な点です。
データからすると、高齢者の運転が他の世代と比較して極端に「危険」だとは評価できず、「高齢者の免許を一律剥奪する」ことの妥当性は「権利の制限」を全面的に肯定できるほどは強くないといえます。ただし、75歳以上の高齢者については、75歳になった段階で一度全員が試験を受けて適性をチェックしたり、この世代の方々に積極的な免許の「自主返納」を促したりするということは可能なように思います。
自動車がなくなったあとのことも考えなければいけない
さらに別の論点として、仮に高齢者の免許を剥奪するとしたら、代わりとなる交通機関(バス・鉄道)などを整備する必要があります。都市ならば良いですが、地方であればすでに多くの路線が廃止となっている、路線はあっても本数がとても少ないなど、様々な問題があります。
このような「その後のこと」がまだ整っていないことから考えても、今すぐに「年齢による一律の免許剥奪」は難しいのではないかと考えます。
結論:いまのところ「高齢者の免許を取り上げる」ところまでパターナリズムは出ていけない
最後に結論です。すでに免許制という一種のパターナリズムが取り入れられた「自動車政策」について、さらにパターナリズムを加速させてある一定の年齢以上の高齢者からは強制的に免許を剥奪することは、現時点では妥当ではないという結論に至りました。
ただし、75歳以上はたしかに事故率が高く、公共交通機関の整備が進んだり、加齢と運転技能の低下について強力な科学的証拠が示された場合には一気に規制へと向かう可能性も十分に残されているように思います。
お読みいただきありがとうございました。
<参考文献>
「特集 『高齢者に係る交通事故防止』I 高齢者を取りまく現状」、内閣府HP、2019年5月11日閲覧
https://www8.cao.go.jp/koutu/taisaku/h29kou_haku/gaiyo/features/feature01.html