大衆文化は大衆「の」文化なのか?-1

マスメディアの登場と分断の宥和、そして、、、

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シリーズでお送りしている「大衆文化とマスメディア」、今回はその3回目になります。

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前回は、文化の歴史のうち「大衆文化」が成立するまでの時代について書きました。大衆文化が成立する以前には、キリスト教の教会文化と庶民の文化は様々な面で分断されていたと考えられていることを紹介しました。

字が読めなくても文化を楽しめる!

その流れを変えた1つの要因がマスメディアの登場です。これは主にアメリカを震源地とする変化です。1914年から1918年にかけて起こった第一次世界大戦ではヨーロッパの広い地域が戦場となり、戦勝国・敗戦国に関わらず経済は大打撃を受けました。

一方で、自国は戦場となることなくこの戦いに勝利したアメリカ合衆国は、1920年代にイギリスに代わって世界経済をリードする時代を迎えます(ちなみにそれが今まで続いているということです、この話は後程詳しく触れます)。この時代に自動車や家電製品が発明され、ラジオ放送やハリウッド映画の上映が始まります。これによって、文化を楽しむために字が読めるかどうかということが関係なくなります

日本は昔から識字率が(異常に)高い国であるため、あまりこういったことは意識されていないようにも思えますが、これは文化を考えるうえで非常に重要な変化です。ちなみに、世界銀行によれば2020年の世界全体の識字率は約86%ですが、1975年の時点ではまだ65%程度でした。

日本で話題ならないだけで字が読めない・書けない人は世界にたくさん存在するのです。ましてや、1920年代では文字が読めない人の方が多数だったことは間違いありません。そのような人たちでも楽しめる文化ができたのです。

大衆が文化を楽しむ「余裕」が生まれた!

もう1つ、メディアの登場と同じく大事な要因があります。それは、労働者の地位が向上したことです。これもあまり語られることがないように私は感じます。

前回の記事で、庶民文化を共有している人々を指して「農奴」という言葉を使いました。農奴というのはその名の通り「奴隷」であって、教会の司教や騎士の所有する土地のうち与えられた部分を耕すためだけに存在しており、他の土地に移ることは不可能でした。さらには、彼らが耕して収穫した作物のうちの多くはその土地の領主(地主)である司教や騎士などが「税」として徴収することになっていたため、移動の自由もなければ、経済的にも全く独立していませんでした

しかし、産業革命が起きたことにより、土地に縛られない「労働者」が必要になったため、地方の荘園に縛り付けられていた「農奴」たちは都市の工場で働き始めるようになりました。つまり、元「農奴」たちはこれにより移動の自由を(もちろん現代とは違う意味ではありますが)手に入れました。

ただし、「農奴」が「労働者」になったとは言っても、働く環境は劣悪極まりないものでした。1日10時間以上は当たり前でしたし、週に1日も休みなく働いて、休憩も1日1回30分あればいい方というような条件でした。さらには児童労働も盛んに行われました。大人が入ることのできない炭鉱の小さなトンネルで10代やそれよりも幼い子どもが働いていました。

このような劣悪な労働環境のせいで、産業革命を世界最初に起こしたイギリスでは平均寿命が30歳代に落ち込み、さらにはスラム街が拡大するなど国全体が社会不安に陥りました。そのため、「労働者を保護しよう」という動きが出てきます。なぜなら、このまま国が崩壊するようなことは労働者を雇っている資本家の側としても避けたい(という消極的ともいえる理由)からです。

それによって、いまの「労働基準法」にあたるような法律の原型ができてきます。これによって、当然のことながら労働者の仕事上の権利・政治的権力を増大させます。賃金もより高くなります。さらには、労働しない休みの時間は「余暇」に充てることができるようになります。

こうしてはじめて、一般の「労働者」が文化を楽しむことができるまでに自立した存在になったのです。

逆に言えば、国の人口の大多数を占める「労働者」に余裕がないような社会では「大衆文化」は成立しえないとも言えます。

では、その「大衆文化」が私たち大衆に何をもたらしたのかを次の記事で考えてみます。

お読みいただきありがとうございました。

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