大衆文化前夜の文化~隔絶されていた私たち~

民俗とハイカルチャー

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シリーズでお送りしている「大衆文化とマスメディア」、今回はその2回目になります。

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前回は、文化とは何なのかということを書きました。今回は歴史を紐解いて、大衆文化が登場するまでの時代について書いていきます。

教会文化と民俗文化

近代以前の西洋世界では、教会に関わる上流文化(ハイカルチャー)と一般民衆に流れる文化では大きな分断があったと言われています。分断の原因になっていた一つの要因は言語です。キリスト教に関わる文化はすべてローマ帝国時代からの古いラテン語を用いますが、この言葉は一般の生活で使う言語ではありませんでした。

ちなみに現代ではラテン語は死語ですが、学術の世界ではいまだに使われており、現代でも由緒正しいことを示すある種の指標となっています。欧州の高名な学者や政治家などにはラテン語を話す人が現代にも少なからず存在し、高貴な家柄であることを示す一つの記号としての意味を持っています。英国のボリス・ジョンソン首相などがその例として挙げられます。

ラテン語の問題に加えて、そもそも庶民の識字率が低いことから文芸を楽しむことはまず不可能だったと考えられます。絵画を描くにしても、教科書等で学ぶ必要があるでしょうから、文字が読めないというのは致命的な欠陥です。裏から言えば、文化を享受するために教育がどれだけ重要な役割を果たしているかがわかります。

ですから、庶民の間で流布していた民俗芸能は口述で伝達したり、技を見よう見まねで覚えることによって継承されていったと考えるべきです。

さらには、教会を中心とするハイカルチャーも、文章を大量に印刷して頒布したり、大量の情報を一度に伝えるような技術はなかったことから、現代から考えれば文化が伝播する範囲やスピードには限界があったといえます。

印刷技術の影響はいかに

15世紀にはドイツ(当時の神聖ローマ帝国)のグーテンベルクが活版印刷の技術を発明し、のちにラテン語ではなく庶民が話す言語で書かれた聖書が印刷されるなど、印刷技術の発明は革命的な影響を与えたと言われます。

しかし、前述した通り庶民の識字率が低かったことなどから、印刷技術が大衆文化にもたらした変革がどれほどのものであったかは疑問が残ります。印刷技術は教会を中心とするハイカルチャーと庶民の文化との分断を緩和することには貢献していないとも考えられます。

完全な分断と考えられるか

最後に、この問題について、教会文化と庶民の文化が完全に分断されていたとは言えないのではないかという見解も存在することを述べておきます。例えば、地元の庶民の祭りに教会の司祭が参加するなど、教会と庶民との文化的な交流は密に存在していたとする仮説です。

たしかに、中世ヨーロッパはすべての庶民は教会やその配下である騎士などの荘園で農奴(日本で言うところの小作人)として生活していたため、社会制度としても庶民と教会は密接に関係していました。そのため、教会と庶民の間で文化的な交流が盛んにあったのではないかと考えることはできます。

しかし、荘園の領主である教会とその土地を耕すために存在しているだけの庶民(農奴)の間の力関係の差は激しく、庶民の力で教会の文化を変えうるような大きな変革を起こすことがあったということは考えづらいです。

教会の司祭などは自らのハイカルチャーを楽しみつつ時には民俗文化を楽しむ一方で、一般の庶民はハイカルチャーからは隔絶され、民俗文化を代々継承していったのではないかと考えられます。

お読みいただきありがとうございました。次回はいよいよ大衆文化の夜明けです!

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